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怨念の空席 [俳誌「R…]より転載]

 明石大阪を結ぶJRの新快速電車は、いつも混雑している。
 およそ40分間の車中、行きも帰りもよほど運がよくなければ座れない。

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タグ:新快速 空席

ファン [俳誌「R…]より転載]

 私のミステリー趣味は、小学校時代に始まる。
 小さい頃から目が悪くなるほど本はよく読んだが、そのほとんどは妖怪話やミステリーだった。

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本音の功罪 [俳誌「R…]より転載]

 大人には本音と建前がある。

 学生時代と社会人になってからの合わせて12年近くを過ごした札幌では、まわりに本音で生きる人が多かった。

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タグ:本音

長寿県の謎 [俳誌「R…]より転載]

 都道府県別平均寿命の男性第一位に、今回も長野県が輝いた。女性は第五位だったが、トータルでは日本一、堂々たる長寿県である。

 長寿の秘訣を県の担当者に聞いたところ、一つには年を取っても生きがいを持って活躍する人が多いからという答えが返って来たそうだが、生きがいを持って活躍するにも基本的に健康でなければならないから、どちらが先かということになる。
 長野県は老人医療費が全国一少ないことでも有名だが、これは数十年前から力を入れている予防医療の徹底が功を奏しているらしい。その頃から、男女とも平均寿命の順位を確実に上げてきている。

 アメリカ滞在中、現地のテレビ番組で日本の長寿が取り上げられたことがあり、特に長野県が注目されていた。山に囲まれてタンパク源も乏しく、毎日塩辛い漬物ばかり食べて、体には決していい環境ではないのに、長生きを保っているのはなぜか。
 アメリカ人リポーターによれば、その謎を解くカギは長野県ならではの食生活にあるという。
 最も特徴的なのは、豊富な昆虫。イナゴ、ハチの子、ゲンゴロウなどは良質の高タンパク食である。ミネラルを含んだソバ、キノコや山菜などの山の幸、味噌や寒天、氷餅などの伝統食品、旬の野菜や果物がそれに続く。昆虫を中心とする粗食が、特に長野県人を長寿へと導くカギだ、とリポーターは締めくくる。
 たしかに子どもの頃、母は近所の田んぼでイナゴを捕まえては佃煮を作り、叔父はハチの巣を見つけてはハチの子入りのおにぎりをにぎっていた。
 しかし、現在の平均寿命日本一に貢献している両親世代が、若かりし頃そろって主食のように昆虫を食べていたのだろうか。そうではあるまい。ソバやキノコはよく食べたかもしれないが、当時からよその県でもソバやキノコくらいいくらでも食べられたような気もする。

 気候の点ではどうか。
 長野県は四季のめりはりが激しく、気温の日較差も大きい。いかにも血圧に悪影響を与えそうな気候だが、生まれた頃からそういう環境で育つと、逆に環境変化に対する適応能力がついて、ちょっとやそっとのことでは応えない体になるのだろうか。
 しかし、同じように気候が厳しく漬物好きである青森が、男女ともにワースト一位であった。青森県民も昆虫とソバを食べれば寿命が延びるかといえば、素人目にもそうはならないだろうと思う。

 それでは地形はどうか。
 長野県は青森県よりはるかに標高が高い。信州まつもと空港は標高六五七、五メートル。他県では山に匹敵する高さである。
 標高が高くなるにしたがって、空気中の酸素濃度は低くなる。酸素は生き物がエネルギーを産生するのに必要だが、同時に細胞を酸化して生活習慣病などの誘因にもなるという。酸素消費速度が遅い動物種ほど寿命が長いという報告もある。世界的にみても、高地民族には長寿者が多く、心疾患や高血圧の発症率も低いらしい。
 長野県は酸素濃度が薄いので、酸素消費速度も抑えられて、特に長生きなのだろうか。

 あるいは、県歌「信濃の国」が長野県民の士気を高めているのでは?

 地元の人は日々そんなことを考えながら暮らしているわけではあるまいが、百歳まで生きる計画の私としては、長寿の謎がとても気になる。

 イナゴもいない標高ゼロメートルの明石で長生きを目指すには、せめて週に一度は高らかに「信濃の国」を歌い、長野県の恩恵にあずかりたいものだ。


タグ:信州

髪にまつわるタブー [俳誌「R…]より転載]

 物心ついた頃から、私は床屋や美容院の類が苦手であった。
 できれば延々と伸ばしっぱなしにしたいところであるが、伸びた髪をお手入れするのもまた面倒だ。

 小学校入学前からすでに頭の右後方に片寄って若白髪があった私は、後ろに立った美容師さんに髪を梳かれながら大袈裟に驚かれる瞬間がたまらなく嫌だったので、美容院自体も大嫌いな場所になってしまった。
 「あらやだ!シラガ!」
 毎回同じ美容師さんなのに、そのたび同じように驚く物覚えの悪さと無神経さにはほとほとうんざりしたが、さらに、ご丁寧に1本1本白髪を抜いてくれる好意もまた実にありがた迷惑であった。

 白髪は弱々しいからすぐ抜ける、というのは間違いである。
 若白髪は、普通の健康な黒髪を抜くのと同じように、ピリッと痛い。抜かれるたびに涙がにじむほどである。
 美容師さんは親切心で抜いてくれたのだろうが、残念ながらそれはもはや親切の域を超えていた。だいたい白髪も毛のうち、抜くのはもったいない。


                        (白髪?白毛?)

 おばさん時代を迎えた今では、当然ながら若白髪ではない本物の白髪が花盛りである。
 はじめて本白髪に気づいた時には、まあ仕方がないと特に気にも留めなかった。
 ところが、ある日気まぐれに白髪染めをしたのがいけなかった。染めて1ヵ月もしないうちに、生え際だけが再びぐるりと白くなる異常事態を引き起こしてしまったのである。

 それは当然の成り行きというもので、異常であるはずもなかったが、これがたいそう気になる。
 気になるのでまた染める。
 そしていつの間にか、染め続けずにはいられない状況に陥ってしまっていた。
 
 同級会に顔を出すと、女子はあまり変わらないが、男子のなかにはまれに恩師かと思うような人がいる。これも髪の毛の様子によるところが大きい。
 女子はそこそこ豊富な髪の毛を栗色に染め、顔にはおしろいを塗りたくって化けて出て来る。その点、男子は包み隠さず、いたって正直である。

 今から15年ほど前のこと、大学卒業以来何年ぶりかで同期の男子に会ったとき、私はまだ幼い息子の手を引いていた。
 机を並べた学生時代とは何かしらイメージが違って見えるその人に向かって、息子は覚えたての言葉を使った。
 「ハゲてる」
 数日おいて、再び彼にばったり会ってしまったとき、私は運悪く、またもや息子を連れていた。
 「おかあさん、ボクもうこの人にハゲっていわないから!おヤクソクする」
 当の本人を目の前にして、息子はそう約束した。

 髪の毛の話題はタブー、そう教え育てて今年でハタチ。
 久しぶりに会った息子は、白髪染めの間隔が大きくあいて悲惨を極めた私の髪を見ても、何も言わなかった。
 息子の髪は、開き気味の松ぼっくりをかぶったように不揃いで笑えたが、私もあえて何も言わなかった。


                        (ヘアーリッチな頭)


磁器婚式 [俳誌「R…]より転載]

 結婚の記念年といえば銀婚式と金婚式しか知らなかったが、毎年それなりの呼称がついていて、結婚20周年は磁器婚式と呼ぶそうである。
 その日、私たちは磁器婚式を迎えた。

 前夜の夕食のテーブルにアジの干物を並べたところ、いつもは喜んで食卓につく夫が、珍しく不満気な顔でボソボソとつぶやく。
 「今日は結婚20周年だったね」

 すっかり忘れていた私は動転した。
 仮にも結婚20周年の記念すべき晩にアジの干物1匹はまずかったかと思ったが、カレンダーを何度もめくり返し、頭の中で過去を整理し終えたところで、今度は逆に優位に立った。

 「いやいや、結婚記念日は明日でしょ」
 「えっ、そうだった?」
 「まあ、たぶん…」

 20周年とは、こんなものだろうか。日付さえも不確かだ。

 今から10年前の結婚10周年のとき、私たちはアメリカにいた。
 日本ではスイートテン・ダイヤモンドが大流行だったが、貧乏の極地にいた当時、ダイヤモンドを買うどころの騒ぎではなかった。
 「結婚20年目には、お母さんに大きなダイヤモンドを買ってあげるからね!」
 カリフォルニアのつき抜けるような青空の下で、夫と息子はあの時たしかにそう言ったような気がする。

 そして、20年目のその日が来た。

 先週、息子の大学に授業料を払い込んだ我が家の財布は見事にスッカラカン。来年分の授業料のために、薄給の中から貯金も始めなければならない。
 スイートテンは倍になって私の胸元を飾るはずだったのに、10年前と同じことが再び起きようとしている。

 4月生まれの私の誕生石は、子どもですら知っているダイヤモンドだ。
 そのことを夫と息子には自慢げに話して聞かせてきたが、実のところ私は宝石に興味はない。よほど盛装が必要な場面でなければ、アクセサリーの類も一切つけない主義である。
 ダイヤモンドを買うような余裕があれば、迷わず銘酒頒布会に申し込む。
 
 しかし、そもそも結婚記念日にダイヤモンド、ダイヤモンドと騒ぐのは、若干おかしい。
 10年目は錫(すず)婚式(あるいはアルミ婚式)と呼ぶそうだから、ヤカンをプレゼントすればいいし、20年目の磁器婚式には湯呑みでいい。
 ダイヤモンドを頂くにふさわしいのは、60年目のダイヤモンド婚式しかない。
 結婚60年目、運がよければ私たちはそろって米寿を迎える。

 結婚記念日前夜の夫との会話は、
 「それじゃ、明日の夜はあの店行くか?」
 「そうだね、あの店で待ち合わせね」
で終わった。

 あの店とは、あの居酒屋だと思うが、はたして本当にそうだろうか?

 結婚20年、あ・うんの呼吸がいまだ完成されていない私たち夫婦間で、”あの店”という表現はタブーだった。
 ”あの店”へ行って夫と会えたら、あと5年後に迫った銀婚式までは我慢してみようか。


京町家見学会 [俳誌「R…]より転載]

 高校同窓会関西支部のなかに若手交流会が設立されたのは、三年ほど前のことである。
 三十代、四十代の中間層でスタートした若手交流会も、現在では幅を広げ、上は七十代の大先輩から下は大学生の正真正銘“若手”まで、また過去の関西暮らし経験者も含めて、その数はおよそ五〇名に達した。

 交流会のメンバーが交代で幹事を務め、二~三ヵ月に一度は親睦会も開いている。
 この夏には、大学建築史の研究をされている先輩の幹事で、祇園祭間近の京都の町を舞台に「京町家見学会」が開催された。

 その日はあいにく近畿地方に台風が接近し、朝から強風と雨の悪天候であった。
 夫と連れ立って家を出る。(注:夫は非・同窓生)

 京都到着後、どこかで腹ごしらえをする必要があったが、台風のせいで電車が遅れたため、昼食の時間は消えた。そのまま仲間と合流し、雨のなかを第一の目的地である「廣誠院」へと向かう。


 ここでは座敷、茶室、庭など、さまざまな工夫を凝らした造りに、日本建築の真髄を見る思いであった。これだけの建築物を維持するには大変な手間がかかりそうである。住むには腰が引ける。実際にお住まいの方も不便さを口にされていたが、そのご苦労を補って余りある歴史の奥深さがあった。

 時代を遡った空間を後にした私たちは、次の目的地「長江家」に向かって、祇園祭の飾りつけが整った町のなかを延々と歩いた。


 到着した一画はその外観を昔のままに留め、元治の大火による焼失や敷地の買い足しにより変遷を重ねたとはいうものの、その内部にも随所に当時の名残がみられた。税金の関係で間口の狭い縦長住宅になったというガイドさんのお話を伺い、古人が絞り出した知恵を思った。この日は祇園祭に合わせて貴重な屏風や掛け軸なども多数展示され、屋敷は観光客のため息に溢れていた。

 町家見学を終えた私たちは、懇親会場である上七軒のビアガーデンへと移動を始めた。
 次第に雨脚が強まるなか、ひたすら歩く。

 夫と私は、空腹の頂点を感じながら皆の後を追っていた。前を行く夫に、目印として他に類をみない鮮やかな緑色の傘を持たせ、私はその緑を見失わないようにして歩き続けた。

 道路の両側には祭りの屋台が軒を並べ、イカ焼きやフランクフルトのおいしそうな匂いが漂ってくる。幸い傘もさしている。傘に隠れてそっと買い求め、素早くほおばれば、この飢餓はたちどころに解消されるだろう。
 イカの前で立ち止まり、財布を出しかけてふと前を見ると、アユの塩焼きの前に立ち尽くす夫の姿が見えた。

 いかん、いかん!
 先輩が幹事の高尚な見学会の最中、コソコソとイカやアユを買い食いするわけにはいかない。
 
 ようやくたどり着いたビアガーデンで飲んだビールがどれほど旨かったか、言葉にできない。
 
 若手交流会の親睦会はこのように楽しい。


猫の一日 [俳誌「R…]より転載]

 毎朝五時に起きる犬よりも、猫の朝はさらに早い。朝が早いというよりは、むしろそれは夜中に近い。

 深い眠りの沼底にいる私を、かすかに「ニャオン」という声が呼ぶ。声は次第に耳元近くなり、半分眠りながら無意識に布団から出した手に、猫はゴロゴロと顔をこすりつけてくる。柔らかな猫の体に触れているうちに、私は再び眠りにつく。
 やがて息苦しさを覚え、うっすら目を開けると、胸元に猫が座っている。開いた瞳孔は獲物を狙うかのようにこちらを見ている。喉笛をかみちぎられそうな殺気を感じて、私はやむなく起き上がる。

 餌をやって時計を見ると、夜中の三時前である。
 「カリカリ」と軽快にキャットフードをかみ砕く音を聞きながら、私は布団へ戻る。しかし、十分後に再度起こされることは覚悟の上である。餌の次は水である。うちの猫は汲み置きの水を飲まない。飲むのはトイレタンクに勢いよく流れ落ちる水である。そういう猫は案外多い。

 餌を食べ終えると、猫はまた「ニャオン」と私を呼びつける。暗い廊下を手探りで、猫とともにヨロヨロとトイレまで進む。まとわりつく猫の肢をうっかり踏んでしまうこともある。犬ならば「ごめ~ん」と頭の一つも撫でてやれば許してくれるが、猫は許してくれない。足の甲を思い切り引っかかれるが、それでもまだ私は眠い。刻は三時を過ぎたところである。
 猫がトイレタンクの上にフワリと飛び乗るのを待って、水を流してやる。流れ出る水を一心不乱に受ける猫をトイレに残し、私は再び布団の中へ。

 気持ちよく意識を失いかける寸前、今度は「ゲッコ」という音が耳を突いて響く。
 まずい!どこかで猫が吐こうとしている。
 「ゲッコ」が四、五回続いた後、猫は吐く。
 一回目の「ゲッコ」で私はガバリと起き上がる。二回目の「ゲッコ」で猫の現在位置を確認。三回目の「ゲッコ」でティッシュの準備。そして四回目の「ゲッコ」で猫の前にティッシュを敷き詰める。
 しかし、ここは何気ない風を装って、きわめて物静かに行動しなければならない。こちらがあわててドタバタすると、猫は「ゲッコ、ゲッコ…」を繰り返しながら手の届かない所へ逃げて行ってしまう。そうなったら後の片付けが厄介である。
 今夜は幸い狙い通り。片付けは楽である。しかし、猫は自分で吐いた毛玉に驚き、部屋中を狂ったように駆け回っている。少し落ち着いたところでもう一度水を飲ませると、時計は四時を過ぎていた。
 猫を抱えたまま布団へ入る。

 そして朝の五時、日の出とともに夫と犬が散歩の準備を始めると、猫もシャキンと起き出していく。

 日中、猫はアンモナイトのように丸まり、犬と同じようにそのほとんどを寝て過ごす。たまにパソコンキーボードを横切って謎の文字を残したり、テレビリモコンを踏んで勝手にチャンネルを変えたり、またピアノの上を歩いて不協和音を奏でたりする。
 日中は好きにするがいい。凶暴でもいい。夜中の三時に起きなければいい。
 無理か、猫だから…。


犬の一日 [俳誌「R…]より転載]

 犬の朝は早い。
 五時には起きて、夫と朝の散歩に行く。戻って来ると、入れ替わりに猫が玄関から飛び出す。夫が大慌てで猫を捕まえに行く騒ぎを背に、犬はたいそうな音をたてて水を飲む。
 朝ごはんをもらって、家族の出勤を見送ると、犬はその後の大半を寝て過ごすと思われる。留守番中、ゴミ箱をあさったり、テーブルの上のシシャモの浜焼きなどを食べて、たまに怒られることもある。

 夕方の散歩は私の役目である。この時間、浜辺は犬のためにある。大型犬は気品を漂わせて堂々と砂浜を歩き、中型犬は飼い主と遊びながら活発に走り回る。そして小型犬は、キャンキャンと他の犬を牽制しながらやかましく通り過ぎる。
 最近、血統書付きの高級犬を飼う家が増えた。一緒に遊んでうっかり怪我でもさせようものなら、とても厄介なことになりそうな犬ばかりである。できれば遠く見るだけにしたい。しかし、高級犬の飼い主には社交的な人が多く、犬同士一緒に遊ばせようとする傾向がある。

 うちの犬は人間に対しては押し並べて友好的だが、年々犬に対する態度が冷たくなってきた。若い頃はお気に入りの犬仲間が二、三匹いて、散歩で一緒になると喜んで遊び回ったものだが、この地に引っ越してこのかた、気の合う仲間をいまだ見つけられずにいる。攻撃的に吠えたり咬みついたりすることはないが、かといって相手に興味を示すこともない。とくに高級犬集団にはなるべく自分からは近寄らず、向こうから近寄ってきた時にはぎりぎりまで無視する。
 私が飼い主たちと話し込んでいる時など、足元の方から強い視線を感じてふと見ると、犬が潤んだ瞳でじっとこちらを見上げていることがある。積極的に誘いをかけてくる他の犬たちに取り囲まれ、その真ん中でただ一匹おすわりしたまま「帰りたい」と必死に訴えているのである。

 こんな目で見つめられた経験が、遠い過去にも何度かあった。それは保育園時代の息子である。大人には誰にでもよく懐いたが、あの頃の彼は同年代の子どもが苦手であった。朝、保育園に置いて行く時、ギャアギャアとはしゃぎ回る友達に囲まれながら、息子は泣きそうな顔でよく私を見上げていた。連れ帰りたい衝動を押さえて、私は一人職場に向った。おかげで息子は鍛えられた。

 しかし、今更この犬を鍛えるつもりはない。「帰ろうか?」と声をかけると、待ってました!とばかりに犬は駆け出す。息子の視線に気づかぬふりをして過ごしたあの日々を、犬で償う。

 途中、野良猫に餌をやっているおじさんと出会う。浜の公園をすみかにする猫が集まり、周囲を警戒しながらキャットフードを食べている。犬仲間には決して近づかないくせに、猫集団には自分からぐんぐん近寄って行く。一斉に威嚇を始める猫たちを前に、犬は当惑してまた私を見上げる。

 浜辺の散歩から戻ると、水をもらい、晩ごはんをもらって、犬は満足げに寝そべる。留守番していた猫がちょっかいを出すが、片目を開けるだけで反応しない。

 ボールもフリスビーもキャッチせず、ドッグレースにも出場せず、滅多に吠えないので番犬にもならない。血統書もないので、長ったらしい名前も持たない。
 平凡な飼い主に拾われ、明日も今日と同じ一日を送る。


終の棲家 [俳誌「R…]より転載]

 

 息子が東京一人暮らしを始めたのを機に、夫と私も海沿いの小さなマンションに移った。海岸まで徒歩二分、最寄り駅までは徒歩三分である。

 この新築マンションモデルルームを見に行ったのは、小雪が舞い散る二月の半ばであった。夫も私も持ち家への執着はなく、定年まではこれまで通り借家暮らしを続け、定年後は夫の実家がある九州へ戻ればいい、と考えていた。この土地で家を買う気はまったくなかった。しかし、夫と二人で神戸港まで海王丸を見に行った帰り、私たちは並んでモデルルームの前に立っていた。
 見るからにひやかしの客とわかる私たちを相手に、まじめそうな営業マンは丁寧に応対してくれた。モデルルームを案内してもらい、全額ローンを組んだ場合の支払方法などの説明を受ける。そして、初来店の客相手に行われる一連の儀式が終わったと思われる頃、夫は言った。
 「それじゃ、これ一つ下さい。」
 八百屋でスイカを買うような気楽さで、夫はマンション購入を決めた。営業マンはあわてるあまり、「よそをご覧にならなくてよろしいんですか?」と商売気のないことを言った。

 そんな話を友人にすると、お金持ちだねえと感心されるが、実際はその逆である。賃貸マンションの支払いが月額十万、息子への仕送りが寮費七万を合わせて月々十五万、その他に毎年私大の授業料を払っていくのは、予想していたこととはいえ、どうにも苦しい。息子の進学が決まってから、保険もやめた。月刊誌の購読もやめ、米のレベルも落とした。エアコンを切って着る物で調節した。節約できるところはすべてした上で、最大の負担は家賃であることに気づいた。
 ローンを全額払い終える時、夫は八十才という地獄絵巻のような計画ではあるが、当初五年間の支払い月額は、賃貸の半額以下に抑えられる。とりあえず五年間が楽ならば、息子が一年留年したとしても、何とか大学を卒業させることだけはできる。その後は少しずつ支払い額を増やして期間を短くすれば、私たちでもマンションが買えそうである。

 モデルルームを見学した日からわずか一ヵ月後、私たちは真新しい新居に引っ越した。犬と猫も一緒である。新しい環境に、犬はたちまち馴れた。家族さえ一緒なら、どんな家だろうとかまわないようであった。一方、猫は物陰に隠れたまま、飲まず食わずで数日を送った。どうなることかと心配したが、やがて猫も馴れた。
 今年十一才になる老犬の足腰を考えて、住まいには二階を選んだ。南側には道路を一本挟んで四階建ての老人ホームが建ち、決して見晴らしがいいとはいえないが、視界の四分の一ほどにかろうじて海が見える。海のない県に生まれ、海に憧れ続けてきた私は、子ども時代によく浜辺や貝殻の絵を描いて遊んだ。ベランダから眺める景色の一角は、当時想像で描いた絵によく似ている。

 仕送り確保のための苦肉の策とはいえ、このマンションが終の棲家になることは、もしかすると昔からの夢の実現であったのかもしれない。


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